東光寺とは史跡のご紹介
萩藩主 毛利家墓所(国指定・史跡)
御廟(おたまや)とも言われるこの墓所には、東光寺開基の三代藩主毛利吉就公から十一代までの奇数代の藩主、ならびにその夫人の墓が正面に、また、それらの右手、左手と入口手前に一族関係者(子、孫、側室、侍女ら)の墓があります。
まず目を引くのが、墓所内に整然と左右均等に並んでいる約五百数基の石燈籠です。この石燈籠は家臣らが寄進したもので、その一基一基に弔う藩主・夫人の法名と寄進者名・年月日が刻んであります。墓の形式は五輪塔形の大照院のそれと違って唐破風の笠石付き角柱(位牌)の形に統一してあり、法名が刻んであります。法名が赤字で書いてある墓は、生前に立てられた墓ではないかと言われています。
墓所内の鳥居ですが、これは神仏習合のなごりであるとともに、偉大なる藩主を弔った神聖なる霊域である事を示威したかったのではないかと考えられます。入口の門の慧極禅師の書「無塵勝地(塵無き優れた地)」の額もそれを物語っています。また、この墓地の造営にあたっては、入口の門より墓碑に到る参道の設計や仕切り石の捉え方などに、黄金分割や遠近法が巧みに用いられ、その荘厳美を見事に演出しています。そこに当時の造営技術の水準の高さを知ることができます。
この墓所は、藩制時代の大名家の葬制ないし墓制を知る上でも貴重な史跡といえます。毎年、お盆の八月十五日には万灯会が行われます。なぜ東光寺の墓所に奇数代のみのお墓があるのかについては、毛利藩が初代を別格に(天樹院)、偶数代(昭)を大照院、奇数代(穆)を東光寺に弔うという中国古代の昭穆制(しょうぼくせい)を採ったためと考えられます。
方丈
東光寺諸堂の中でも最大の堂宇(どうう)である方丈は、寛政四(1792)年の建立です。当時は東光寺が円熟期を迎えたと言われる第十五世大愚衍操(たいぐえんそう)禅師の代でした。
方丈とは一般的に、寺の住職が住まいする居間を言いますが、この方丈は忽室(こっしつ=禅問答する為の部屋)・寝室・茶室の機能を一つに集約した建物として造られたようです。方丈の間取りは通常「六間取り(ろくまどり)」が基本ですが、この方丈にはその奥に毛利家の各藩主が墓参りに来られた際に休まれる座敷が連なっています。
現在、中央十四畳の正面奥の仏壇には開山慧極禅師(えごくぜんじ)の位牌と尊像をお祀りし(かつては方丈とは別棟の開山堂に安置されていました)、上部には第七世仰巌元尊(ぎょうがんげんそん)禅師による「金毛窟(きんもうくつ)」の額を掲げてあります。また、左隣の十二畳の奥には、毛利家奇数代藩主の位牌が祀られた位牌壇があります。それらの位牌は以前、寂照殿(じゃくしょうでん)というお堂に祀られていました。「寂照殿」の額(慧極禅師筆)は現在方丈内に掲げてあります。
方丈の玄関は二ヶ所あり、向かって左手は殿様用、右手は家臣用の玄関と言われています。殿様用の玄関は向唐破風造り(むかいからはふうづくり)、額は黄檗宗開祖隠元禅師の「松関」の額、石畳には大きな切り出し石が敷き詰めてあり、家臣用の玄関はむくり屋根の切妻造り、当山第十二世石車衍輗(せきしゃえんげい)禅師の「大醫王(だいいおう)」の額、敷石には自然石が使われています。